自律VS他律
「非計画性、 非論理性、決定不能性」なるものは、一見、アルゴリズ ムの緻密性・客観性と矛盾するのではないか、ここが要である。
結論から言ってしまえば、アルゴリズム的手法に期待するものはあくまで「他律」なのである。誤解 を恐れずに言えばそれは、西洋 2000 年間の「制作」の方法に、東洋の「生成」を同居させる術であると考えている。
よりわかりやすく言えば、今迄の「自律」の創作法とは、“作者のポケットの中にあるもの”からのみ導かれていたのに対し、「他律」の方法によれば、“ポケットに無いもの”をも打ち出の小槌のように引っ張り出し、ひとつの世界観に組み立て上げる力を有している、というこ とになる。
これは何も特別なことではなく、「我」を信頼しないという無我の姿勢は、古来より東洋が培ってきた普通の態度なのだ。因みに、古来の日本が、「自然」を“しぜん”
でなく“じねん”と読ませる時、そこには、「我」によっ てアンコントローラブルなものを指してそう言う、とい う習わしがあった。すなわち「自ずから然る」(自分で勝手 にそうなってしまう)である。
これに対し、私たちが受けて きた戦後教育では、建築の創作はいつも工学的であり欧米論理が主導してきていた。だからこそ、そこにそろそろ自身の意識 されずに置かれてしまった欧米志向の状況を相対化させる時期に来ていると考える。
ただそれは決して新しい方法論を見いだすことではな く、龍樹の空論、般若心経、道元、禅仏教などが示す道 と、似ているどころか寸分違わぬ方向であると、私たち 自身は確信しているところだ。
「他律」の一例として、上の様な蟻塚があげられる。
蟻たちは最初からこのような最終的な見事な「(家の)全体像」を予測しながら「制作」しているでしょうか?無論、答はNOです。そうではなくて、隣の蟻どうしが出すホルモン量や移動の方向、速度、そんな要因による「近隣どうしの事情」(部分どうしの都合)によって、随時 口にくわえた土の塊をどこに落とすか、を決めているに過ぎません。
これは、明快な「全体像としての青図」(トップ)がまずあって、その後それを実現すべく「部分」が計画趣旨に見合うように施工されてゆくというプロ セスではなく、「部分」の関係性・都合がまず先にあり、次に部分どうしが互いの都合で事を運んでいくうちに、結果、ある瞬間突然、見事な「全体像」が立ち 上がってくる、という、いわば「生成」とも言えるべきプロセスといえます。
各々の小さな小さな蟻(部分)どうしの事情(関係性)を丹念に積み上げてゆくことで、いつかとてつもない「全体像」を結果としてもたらしてくれる、そんな「生成の流儀」といえます。
或いはそれは、「人工の計画」でなく「自然の摂理」(メタ計画)と呼ばれてもいいものです。この後者のプロセスを、「部分→全体」なる順番に従うということで、「ボトムアップ」と言うことがあります。
一方、その反対の「トップダウン」とは、先の「まずは全体像(青図)ありき」のプロセスです。これこそ、近代までの「制作」の手法、すなわち「全体→部分」という順番に従った方法をいいます。僕達が慣れ親しんでしまった「制作」というもののプロセスはこちらに属します。それはあくまで、「摂理(メタ計 画)」でなく「人工(計画)」ということになります。
ところで、上記で説明した「ボトムアップ」の創作プロセスは【EAST & WEST】プロセスにとてもよく似ています。
【EAST & WEST】という住宅(家)の部屋配置は、近代建築の建築家が作家性をモリモリ出しながら「トップダウン」で設計・決定したようなものではありません。そうではなくて、諸室のパーティクル(部分)どうしが(蟻がそうするように)互いに相談しながらクライアントの要望を聞きながら席替えをする中、「結果出て きてしまった(家としての)全体像」といえます。これこそがこのプロジェクトの、建築創造という視点での独自性といえます。