順手の人にとって
「右手」と箸は接ぎ木されている
僕がオートバイや炊事や音楽や水商売や波乗りを
子供たちに勧めるのも
これらいずれもが
「右手」に握られる「箸」のように
建築に接ぎ木されて欲しいからなのだ
それらが身体化された箸のようになれば
建築は他の数多の分野の思想を
道具にすることができる
このとき
「建築」と「異分野」の境目は無くなる
建築だけを特別に工夫する必要もなくなる
“ 私は建築とは関係ありません”
という顔つきをしている異種にこそ
僕たちが新し世界を提案できる
種子が潜んでいる
これも
“すべてが建築である”
の所以である